私が桑田さんを知ったのは、阪神・淡路大震災以降ですから諸先輩方に比べれば日の浅い方です。
初めてお会いしたのは、大抵の人がそうであるようにNETの新年会でした。
最初の印象は、随分ズケズケとものを言う人だなぁということでした。
それでも170NETに入会し、次の新年会でQSLカードの発行についてだったと思いますが、彼の発言でどうしても納得がいかないところがあり、2次会で噛み付いて、遅くまで議論を戦わせました。
この時の議論によって、私と同じあるいは私と異なる桑田さんという人の考え方を知り、一生の友人としてお付き合いができる人だということがわかりました。
人は誰でも物事に対して大なり小なりのこだわりを持っています。
或ることに対して「こうでなければならん」と「どうでもええやんか」ということがありますが、
そのこだわり方の対象は人それぞれで異なります。困ったことにそれが対人関係を左右し、人の好き嫌いの要因になっていることも多いのです。
桑田さんは、無線のことや食べ物のことにこだわりを持っていることは多くの人が知るところですが、それが全ての人が納得できるものかということになると必ずしもそうではありません。
その点を指摘して桑田さんの評価をしている人たちがいることは事実ですが、殆どの場合が自分がこだわっているだけで、他人がどう思うが「どうでもええやんか」ということで他人には強要はしません。
先にズケズケとものを言う人と書きましたが、必ずしもそうでないことがあります。例えばおいしいものを紹介されて食べに行った時のことです。
食べ終わってから、私に「どうだった」と聞きます。私が「おいしくなかった。」と答えると、「わしもそう思う」 と言いました。
紹介されたものを食べて、他人の前では決して自分からは「おいしくない」とは言わない人です。
彼が癌に侵された事を知って以来、それなりに気を使ってお付き合いをしてきましたが、私も癌に侵されたと分かった時に、彼よりは進行度が浅い私にとても気を使ってくれました。
彼が亡くなる3日前の12月28日に彼から電話があった時に、私は仕事で電話に出ることが出来ませんでした。
そして友人から「榎戸に電話をしても出ないが、何かあったのではないか」という桑田さんからの問い合わせがあったという連絡がありました。
自身の症状の方が遙かに重いのに、他人の身を案じる、桑田さんとは、そのような人だったのです。
12月30日に私に話があるということを聞きすぐにでも駆けつけたかったのですが、その時私は山口県におりましたので、病院に電話をしましたが、昏睡状態で話ができないということでした。
ずっと付き添って下さっているJO3FLY崎長さんが、話ができる状態になったら連絡をするということでそれを待ちました。
夕方に連絡がありましたが、十分に話ができる容態ではありません。
「用件は新年会のことだよね」「うん」「桑田さんに代わって私が開催すればいいんだよね」「頼む」これだけの会話であとは言葉になりませんでした。
そして、日付が変わった直後に帰らぬ人になりました。
あのような容態の中でも、170NETの事を思う執念に頭が下がると共に、せめて新年会を見届けて欲しかったと悔みました。
桑田さんの容体が悪くなって最後の入院をするまで、ハヤナ勘兵衛の社長のブログを書き続けていました。
ここに桑田さんの生き様が良く表れています。
これは掲載続けるそうなので、今でもでも時々読んで桑田さんを身近に感じています。
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