思い起こせば、最初の出会いは、当然お空で、私が苫小牧市にエンジェルメンバーと移動運用に出掛けた時だった。
当日、不運にも土砂降りの雨の中、最悪コンディションの中から、かすかに、蚊の鳴くような変調。
コールが聞き取れない。何度かやり取りの中、一度は諦めた。
しばし時間を置いて、お互い、中継局に助けられ、JJ3???、わからん? この回もあきらめか?
一文字ずつの送り、受け、何回やり取りを繰り返しただろうか? 桑田氏は、私のコールを確認して居たらしいが、こちらはやっとの思い。
他の各局には待機をさせ乍ら、思えば皆さんには、迷惑千万。でも、誰一人文句も言わずに交信に付き合ってくれた。今考えれば、それだけの人物であり、局であった訳が判る。
それから何年か後、170NETの一員に加えて頂き、又何年か後、芦屋恒例の新年会に初参加、初めてのアイボールに、どんな男だろうと大いに興味があった。
話して行くうちに、桑田氏の奥の深さに尚更興味が沸いて来た。器の大きさ、おおらかさもさる事乍ら、親分肌が見え隠れしていた。
関西人特有の人柄、実は私も大阪出身、関西人の一人でもあるが、性格は似たところもあるが、残念ながら、足下には及ばない。
皆さんから比べれば、付き合いの期間は大して長くはない。しかし、付き合いは、年月ではなく、深さにあることが、私なりに桑田氏との付き合いの中にあった。
8エリアでは、エンジェルメンバーと、他8エリア移動局に依る「8エリア、移動manフェスト」と銘打ち、年一回行われていて、北海道内移動局の有志が一同に集い、イベントが開催されている。
第何回目だろうか、桑田さんが芦屋から札幌の会場に来られ、各メンバーとのアイボールも出来た。 会場内の沢山の移動局の設備を見て、「こんだけ、設備の移動局がおんのに、何で飛んでけへんのや」と関西弁でまくし立てていたのを思い出す。
丁度、会場内では、非常災害通信の模擬訓練の中、各マスコミも会場に入っていて、TVのインタビューに掴まり、「ワシ、こんなん聞いてへんで?」と言いつつも、阪神淡路大震災時、自分も被災者の一人として経験談を話してくれ、又、アマチュア無線の素晴らしさを、熱く話してくれた。 NHKの特別番組でビデオに残った桑田さんの映像を見る度、深い感慨がこみ上げてくる。
お空での出会いから始まり、お付き合い、交信こそ少ないが、これ以来の付き合いは一層深いものになった。
エンジェルの結成10周年を迎え、札幌から一時間半程の北湯沢温泉、ホロホロ山荘での記念パーティーを開催することになり、他エリアからも沢山の参加を頂き、盛大に開催。
カニ喰い放題とあって、夢中でカニを穿る静かな宴会は、参加された局は御存知だと思う。
タラバ、ズワイ、毛ガニと、しかし折角のカニ料理、皆さんに珍しいカニを食べて頂きたく、花咲ガニを知り合いの漁師にお願いし、漁に出て獲れたカニのうち、花咲ガニだけ、船丸ごと買い付けて宴会に間に合うように直送して頂いた。 当然その知り合いの漁師もアマチュア局で、「どうだ、満足したか?」と電話、丁重にお礼を伝えた。 宴会場では焼きガニの屋台も設置、桑田さん曰く、「喰うのに夢中で、静かな宴会やナ?」
皆さん「・・・・・」声も無く手と口だけが動いている。「これ、全部喰い切れるのか」「・・・・・」相変わらず、最後には誰ともなく、「当分、カニは喰わんでもイイワ」。
この宴会には、ホテル側の或る不手際で、特別サービスしなくてはならないエピソードもあり、観光会社の女性支店長が酒の差し入れと共に社員2人が宴会最後までお酌に付き合っていた。
翌朝、案の定、会場には食べ切れ無かったカニと残骸があった。 札幌泊まりの方々は、弊社で契約している定山渓温泉のコンドミニアムで泊まって頂き、話した足りなかった無線談義が続く。 夜中に温泉街へ、みんなでラーメンを喰いに走ったこともあった。
一つ一つの思い出が、つい先日の事の様な気がする。女房はこの時以来、桑田氏の奥様との交流が始まり、無線に関係ない者同士、お互い無線狂い亭主のグチのこぼし相手として電話での長話が始まった。 芦屋で新年会の時、お互い溜め込んでいた話が一度に吹き出す。
そんな或る時、桑田氏から、病に冒された話を聞き、場所は違えど、同じ病になっていた頃の私の経験を話し、元気付けたものだった。 時折来る電話の向こうでは、元気そうな声が聞こえていたので、回復の兆しも見えたと思っていたが、平成22年10月末頃、電話があった。
「今度の新年会が最後になるんや、必ず来てや、その前に、今まで、自分の好き勝手なことばっかりしてて、オカーチャンに何もしてやれんかったさかいに、それでオカーチャン孝行で最後の旅行でも、と思うてんのや、オカーチャンに聞いたら、前に行った北海道へ行きたいって言うとんねん、ええかな?」
「桑田さん、何気の弱いこと言うとんねん、そんなに悪いんか?」ついつい関西弁につられるが、「うん、もうあかんねん、医者も後一年や言うとんねん、それで、抗ガン剤もやめたんや、あれやるとメシも喰われへん、つらいんや、ワシも、もうあきらめたんや、好きな酒もイッパイ飲んだし、旨いもんもイッパイ喰うたし、好きな無線もこれでええかって言う程やったしな?」
「桑田さん、あきらめが早いで、桑田さんらしくないな?、あんた、もっと、しつこい筈や、根性出さんかいな?」
「医者に言われて決めるもんやないやろ、後一年や言われて、生きとる奴イッパイ居るがな、自分の命やで、自分が決めるんや、医者に言われて、ハイ、そうですか、は無いやろ」
「いや、もう、ええねん、諦めたんやから、済まんけど、北海道行ったら面倒見てくれへんか?前に行った温泉とカニが忘れられへんねん、オカーチャンもそう言うとんねん」
電話の向こうの声が、いつしか鼻をすすっているのが判る。「わかった、それやったら、安心しておいで、いつ来るねん」「行くとき7へ寄ってから行く予定や」「決まったら予定教えてや」
その後、メールで予定を知らせて来た。 以前、エンジェルの10周年の時、御世話になった観光会社の不手際の弱みにつけ込み無理難題の予定を投げかけ、なるべく体への負担を掛けないようなスケジュールとした。千歳空港へ迎えに行き、到着ゲートから出て来たいつもの作務衣姿、元気そうな顔を見て、少しは安心したものだった。
札幌に着く当日、近郊の付き合いのある移動局とアイボールを含め、皆でメシを喰うことにして、連絡していた8局が集まり賑やかに食事をし、記念写真も撮った。 席上桑田氏が病気のことを含め、事の成り行きを話した。
「新年会も最後やし、残念やけど、最後やからこそ自分でやるで」
病気の経過も自分から話した。 あれはカラいばりではなかった、元気そのものでした。
散会の後、例の定山渓温泉にあるコンドミニアムへ送り届けたが、このまま札幌に戻る気がしなく、「マッチャン(JK8DGN、松本氏)このまま俺たちもここに泊ろう?や」マッチャンも反対はしなかった。
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