桑田さんが亡くなられてから早や8ヶ月が過ぎました。
思えば一昨年のこと、島根県の鹿足郡に担ぎ上げの応援をされたことがきっかけで、体調不良に気付かれたようです。私は何度かお手伝いした担ぎ上げでは、しんどそうなそぶりは見たことがありませんでした。
430SSBメーリングリスト主催の京都大会で、これから体の検査をすると聞かされ、その後、長い闘病生活に入られました。
その桑田さんから、ちょうど1年位前のこと、私に電話がかかってきました。
私は、毎年行われている430SSBメーリングリスト主催の 「430SSB
DXチャレンジデー」に、兵庫県朝来市からJK3QCG藤原さんとエントリーしていました。同じ場所で別チームのJN3ERY飯塚さんとも一緒でした。
電話の内容は、その朝来市に行っても良いかとのことでした、看護師の崎長さんも一緒だそうです。私は喜んでお待ちしていますと伝えました、
当日午後8時過ぎ、崎長さんの運転で桑田さんが神亀とお寿司の差し入れを持ってこられました。いつもながらありがたいことです、早速、酒宴が始まりました。
この時は元気そうでしたが、体に気をつけておられる様子で、いつものようには飲みませんでした。
この時の話題はかつての移動運用のことでした。この山は麓の入り口に鍵がかかっており、許可を受けないかぎり車は、入山できません。桑田さんが盛んに移動運用していた当時、車で登る許可は得られなかったようです。
桑田さんは空身でも約一時間かかる道を、無線機材を担ぎ上げして、運用した思い出深い移動地の一つだったと、この時、云っていました。
いつもだと、もうとっくに寝ている時間だよ、と云いながらスケジュールに参加し、午後11時頃、もう寝るよ、と云って休まれました。
あくる朝、山頂に登ってくるよと云って、かつての運用地を見に行き、納得した様子で引き上げていかれました。
今、思うと、桑田さんは自分の、かつての運用地、重い荷物にあえぎながら、交信を待っている多くの局を想い、登った記憶をたどっておられたのかも知れません。
これが桑田さんとの最後の移動運用になりました。
桑田さんとは移動運用で何度もご一緒いただきました。
車での8エリア迎撃運用や、新市誕生で篠山市に多人数での担ぎ上げしたことなど色々です。
その中でも思い出深いのは、山口県新南陽市の担ぎ上げに参加した時のことです。広島、山口各局の担ぎ上げに桑田さんが応援するので、私に一緒に行かないかと誘われました。
桑田さんは担ぎ上げ、それも大勢でにぎやかにやるのが好きだったと思います。
荷物が重くなってもビールは必ず持って登ると聞きました。
頼まれれば何処へでも出かける人ですね。
その桑田さんに誘われて、山口県まで出かけました。
2002年5月のことです。
夜9時頃、桑田さんが私の家に迎えにきてくれました。
途中、中国縦貫道の七塚原サービスエリアで車中泊、もちろん神亀とあては鶏肉だったと思います。
桑田さんは、いびきが大きいので一人用の虫型テントで、これは1分で設営出来るねん、と云っていました。
私は、桑田さんの車で朝までぐっすり。こんなところまで気遣ってくれる人でした。
翌朝10時頃、4エリア各局と総勢十数名が集合し担ぎ上げ、桑田さんと私はポーター役で3往復しました。
兵庫の西脇市に比べれば軽いねと、桑田さんと話し合ったのを記憶しています。
その夜はオペレータを残して下山し宴会となりました。担ぎ上げのしんどさを忘れる楽しいひと時でした。
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