桑田さんが翔く
夜 の 帝 王  
末廣 哲雄
 桑田さんの名前を聞いたのは、無線でファースト・コンタクトする数年前のことでした。 
 実は、桑田さんのCMと同業者でした。当局の「読売国内一万局受賞」記事が読売新聞に出たのを見たCM関係のセールスが私に聞きました。
 「芦屋で、山小屋風の珍しい建物のカメラ屋さん三代目で、アマチュア無線好きな御曹司がおられるのをご存知ですか」、しかし、当時でも数万の無線局おられ、出られている周波数も各局千差万別でした。当局は、その当時は430の機械は持っていませんでしたし、50MhzとHF帯しかなく、コンタクトできる状態ではありませんでした。
 余談になりますが、桑田さんの名前より、お店の屋号「ハナヤ勘兵衛」の方を知っていました。ハナヤ勘兵衛さんは、大正時代に、新しいモダンな撮影をされたプロ写真家で、写真が好きな人であれば、その名前を聞かれたと思います。
 読売国内一万局受賞してから、それまでに出られなかった430Mhzに出てみようと思い、簡単なGPアンテナを屋根上にあげました。それから数ヶ月後、1983年4月24日に桑田さんとファースト・コンタクトできました。しかし、JJ3TXXがアマチュア無線が好きな御曹司とは気付きませんでした。その後、何度も深夜ちかくに良くお相手をしていただきました。私も無線の上でCMのことは話しませんでしたので、お互いに同業だとは気付いていませんでした。
 或るとき、タヌキ・ワッチをしているときに、桑田さんがCMの話を出され、ハナ勘さんのお御曹司がJJ3TXX桑田さんと初めて知りました。驚きましたが、当局も人が悪かったのかな?、その後、芦屋新年会でアイボールしたときも話しませんでした。
 桑田さんが、同じCMであることを知られたのは、ずっと後のことだったようで、未だに不思議でなりません。
 当局が思うには、日曜日も仕事で昼間は声も出さないし、夜遅く毎晩でるようなになってから、、桑田さんも、何の仕事をしている人か気になっておられたのでしょうか。
 ついに、当局の身元がばれる日がきました。
 桑田さんも人が悪く?コンタクト中に、ジワジワとCMの話をされ始めました。
当局が大阪市内の心斎橋筋でCMをしていると話しましたら、屋号を教えて、ということになりました。白状しましたら、桑田さんもビックリされました。実は、当局のCMは、日本中で、その道の愛好家、プロカメラマン、コレクターの間では、名の知れた老舗でしたので、話は聞いておられたようでした。そして、、その後、無線以外のCMのことでも、電話でお付き合いが始まりました。

 さて、桑田さんを偲んで無線の上でのお付き合いや出来事に触れてみましょう。
 当局は、430に関しては無知でした。当時のVHFの仲間たちからは、430はローカルラグチュウのバンドだと聞いていましたので、とりあえず簡単なGPをあげました。
 夏の日、夜遅く、かすかに1エリアが入感しましたが、なにせ10WでGPでは、コンタクトに苦労していました。他局もワッチされておられましたが、ようやくコントロール局に入っていただき、やっとQSOでき、1エリアの方ともGPでもQSOできることが分かりました。
 JJ3TXXは開局以来430オンリーで活躍されておられ、他のバンドの違いを教えていただいたのも桑田さんでした。430でコンタクトが無理な場合、中継局が間に入りコントロールしてQSOができる経験などなく、これも430の特徴だと教えていただきました。
 大阪府では高い山もなく、移動しても8エリアと難しいが、、兵庫県の日本海側ではモービルでも8エリアと交信ができることもあるよ、と教えていただきました。 
「TYB(JA3TYBのこと)は休みが皆よりは少ないから固定から頑張ってみたら」ともアドバイスしてくれたのも桑田さんでした。
 当時は、17エレ×2をタワーの上にあげていましたが、もう一段増やしてからは7エリアや今までコンタクトできなかった沖縄も固定からコンタクトできました。
どうしても聞こえない、取れない8エリアが最後まで残ってしまいました。
桑田さんにいろいろ相談しましたが、「コンディションの良い日に移動運用するしかないね」と簡単に云われましたね。
 「TYB局なら意地でも固定の常置場所からやると思っていた」と云われました。
その当時、大阪府の方で、常置場所で8エリアとコンタクトされた方が一人おられたことを
桑田さんがご存知だったようで、当局にハッパをかけていただいたと今も感謝しています。
 現在は、皆さんがパソコンで簡単に移動情報、クラスター等を見てワッチされていますが、JJ3TXX 桑田さんが170NETを始められる前は、430ロールコールで、桑田さんが集められた移動情報を、毎週木曜日か金曜日、21時から430.170で流して頂いていただき、430をやっている者には、嬉しい情報でした。このロールコールが 170NETの前身でした。
 この170NET は、あの痛ましい阪神淡路大震災で桑田さんお店が倒壊全損の中でもNEWSを発行していただいたことは、いかに桑田さんが430のバンドを愛されていたかが分かりました。
 NETグループメンバーで、大阪で有名な「お父さん」、吉田さん(故JJ3QVY局)をご記憶の方も多いと思いますが、430オンリーで活躍された方ですが、桑田さんは、吉田さんのことを、いつも「お父さん」と呼んでおられたことが懐かしいです。
 このお父さんは、無線以外に、もうひとつの趣味、ビリヤードをやっておられました。桑田さんは、ラグビーやスキーも堪能でしたが、このビリヤードでお父さんにチャレンジしましたが、そのプロ級の腕前に、毎回惨敗し悔しがっておられました。
 桑田さんとお父さんをめぐる逸話がありました。
 JJ3QVYさんが九州各地に何度か移動運用されておられましたが、長崎雲仙普賢岳で車ごと転落された事故が起きました。桑田さんは、九州各局に有線で連絡をとり、救援を依頼され、無事救出に成功されました。桑田さんの人脈の多さ、尽力の偉大さに感心いたしました。QVYさんも、桑田さんのお陰で三途の川の手前まで行ったが、帰ってこられ、命拾いしたと、ことあるごとに云っておられました。
 桑田さんは移動運用大好き人間、7エリア辺りまで行かれ、珍しい市を多くサービスしてもらったことも、今になって、非常に懐かしい出来事でした。ここ数年、平日の夜も3エリアでは、430をワッチしていても、聞こえるのはノイズだけで、以前のように、運用周波数を探すのが大変だったことなどが懐かしく思い出されます。
 数年前までは、毎年シーズンオフになる前に、豊能郡の妙見山にあがって、移動納めをやりました。各局との交流と酒盛りの宴会が行なわれ、桑田さんが、毎年、仕事が終わってから駆けつけられました。何年かは忘れましたが、どなたかが銘酒「夜の帝王」を持参されていて、桑田さんが「TYBは飲まんから、中味は皆で飲んでぇ」といわれました。さらに「この酒は、夜に強い人の名前がついているので、ビンはTYB に進呈や」と云われました。
 酒を飲まない人間の私には、とんでもない名前のついた銘酒のことはは知りませんでした。有り難くビンだけ頂戴して帰りました。その頃、3エリアで毎夜最後まで声を出していた当局に、桑田さんがつけてくれたニックネームは、「夜の帝王」でした。懐しい出来事でした。
 当局も、近年におふくろの入院、介護と、さらに自分自身の体調不良等で、声を出す時間も無くなりました。2009年12月2日に、430のFMの周波数帯をスキャンしていたら、偶然、桑田さんが出ておられコンタクトしたのが最後になるとは、夢にも思いませんでした。 
 桑田さんが「たまには430で声をだしてや」といわれたのが、今も当局の頭の中に残っている言葉です。
 今頃、どこかで、QVYのお父さんとアイボールされて、ビリヤードや移動運用の話などを楽しくラグチュウされていると思います。
 当局は桑田さんに、敢えて"73"とお別れの言葉を送りません。QRXと送っておきます。
こよなく430を愛され、発展に努力されたバンドに、今も生き続けられていると思っています。

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