対馬から壱岐へ
2006年7月30日
 滞在中すっかりお世話になった江藤さん宅を訪ねお礼をいう。 権現山への荷物の搬入,搬出にトラックなどお手数をかけた。
 バーベキューの翌日、私たちは、近くの西泊海水浴場から山を 見あげながら、貴重な数日間の運用の日々を思い起こしていた。  比田勝の港には、今朝も「フェリーあがた」がやってきている。  今日はこのフェリーには乗らない。
 江藤家の皆さんに見送られながら、厳原へむかう。
15時20分発、厳原から壱岐島行きのフェリーを予約してある。
国道382号線を南へ下る.

 豊玉町へ入り、珍しい方を探すため、和多都美神社をめざして 走った。今は、この神社の神主さんの奥様だが、かっては高校生の 時代に机を並べていた同級生だったという、JA6ITH局の奥様から 彼女に伝言があった。できれば会っていってほしい、と。
 社務所をさがしてお尋ねしたが、国分さんと云う神主さんは 祭礼のときなどにしか来られないようで、普段は市街にお住まい だとか。
 街で「神主さんの国分さんとお聞きになればわかりますよ」 そんなことをき聞いて、ご自宅を探し当てた。
 神主さんは不在だったが、ちょうど在宅だった当の奥様にお目に かかれた。初めは何のことか戸惑っておられたが、訳をお話したら たちどころに私たちの主旨がお分りいただけたようだ。
 そして、高校時代から別れたままお会いできなかった、懐かし さに喜びを隠せなかった。これで、私たちのお手伝いは終わった。
 きっと今頃、お手紙を書いておられるだろう。

 神主さんがお勤めの和多美神社の裏手から,烏帽子岳という 島での有数の展望台へあがってみた。対馬独特のリアス式海岸の、 複雑な入り江と港の景色を高所から楽しめるポイントでもある。
 対馬の山々が如何に深いか、累々たる山並みを一望できる。

 更に、とても興味深い景色を見つけた。昔、海軍が総力をあげて 島のもっと幅の狭い地峡部を掘削し、水路を建設した、とんでも ない人工の海峡部のことだ。場所の名は、「万関橋」。別名、 万関運河ともいわれている。島の反対側へできるだけ早く抜けられ る水路として完成したもの。橋のの中央部に立って、見下ろす 深い水路には、、信じられないほどの水量の流れが見られ、 潮の干満によるものとおもわれる光景だ。軍事用の建設工事とは いえ、大規模な土木工事が秘密裏におこなわれたのであろう。


人工水路の万関橋
 家内が、どうしても見たいと云っている、厳原の「萬松院」に ある歴代の徳川家の墓所だが、なぜこの対馬に、日本三大墓所の 一つといわれるものがあるのだろうか、私でさえ戸惑った。
 聞いてみると、対朝鮮政府とことあるごとに構えてきた当時の 幕府が、なんとか政府対政府の講和の努力を構築するために、 当時の現地の藩をたてて交渉するためだったようだ。
 歴代の幕府の将軍や家族をまつる寺を建立し、この寺で朝鮮 政府の代表と辛抱強く交渉が続けられたようだ。
つまり、「万松院」は象徴的な、権威の高い会見場だったという ことだ。歴代の将軍の位牌がずらりと並んでいる。
対馬藩の菩提寺である萬松院
 厳原のフェリー乗り場は閑散としていて、日曜日なのに、 フェリーに乗り合わせる車の数が異常に少ない。対馬から 壱岐島へ渡る利用者がとても少ないと聞いている.案の定、 乗用車は、我がホーミー一台だけで、広い車両甲板の中央部に ぽつんと一台だけだった。

 所要時間は2時間と少し、わずかに昼寝をむさぼっただけで、 到着のアナウンス。郷ノ浦という港に接岸。まだ明るい夕方の空を 確かめながら、とりあえず当面の食材をスーパーで入手、目的地で ある芦辺町の左京鼻をめざして走り出す。
 左京鼻は、断崖絶壁の岬の先端部で、海抜20mにある、一面草地の 平地だ。この場所では、かって何局かが移動運用を実施された実績が あると聞いている。
 車で左京鼻に近づくと直感的に、絶好のポイントだということが わかった。暗闇が岬の草原に訪れていた。慌てて、器材類を降ろし アンテナを建てる場所を決めた。まず、近くの街灯の明かりを頼りに テントを張って、器材類を収納。アンテナの本体、その他の パイプなど器材は一カ所にまとめて、明朝の作業に備えることにした。  野営地は、近くにある駐車場にした。夜空の星が一段と輝きを増し、 漁り火も水平線に光の列を放ち始めていた。

 この島での運用は7月の31日と8月の1日の両日だけの予定。 ある意味では、初めての壱岐島での運用が楽しみだった。